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古峡と漱石

古峡は、東大文学部で3年間漱石の講義を受けている師弟の関係で、学生時代からしばしば漱石のお宅に伺っています。漱石のお嬢さんが亡くなった日も、たまたま古峡が尋ねた日のことで、漱石はこの日のことを材料に「彼岸迄」と「雨の降る日」を書き、朝日新聞に連載されています。この中にある男が紹介状を持って尋ねてきた、とあり、その男は古峡だとされていますが、古峡は先生のイマジネーションが、多分に働いて立派な芸術品となっているからであるが、それは事実と違う、長年師弟として知り合っているものが、紹介状を持っていくわけがない、と漱石全集月報昭和3年版の中に「雨の降る日」と題して書いています。漱石全集27巻~31巻は書簡集で、漱石が書いた手紙が多数集められています。その中に明治40年から大正4年までの間に漱石が蓊(古峡)宛に出した手紙が18通載っています。明治40年というと古峡が大学を卒業した年です。この若者によく漱石が度々手紙をくれたものだと思いますが、書簡集の解説を書いている小宮豊隆氏によると、漱石は明治39年1月7日付の森田草平あての手紙に、「小生は人に手紙を書く事と人から手紙をもらふ事が大すきである」と書いているように、漱石は実に沢山の手紙を書いた。単獨に自発的に書いたものが多いが、人からきた手紙に對する返事も多い。といっておりますので、うなづけます。古峡から漱石に出した文面はわかりませんが、古峡はいろいろと窮状を訴えたり、自分の書いた原稿の出版先を頼んだり、経済的なこともこぼしたりしたようです。(中村古峡と黎明より)医療法人グリーンエミネンス

中村古峡記念病院 看護部長 斉藤理